【地方から「活字力」発信】幾多の文学賞受賞、関西の文芸「専門」出版社・編集工房ノア

2021年3月16日

「関西の文芸書『専門』出版社」を掲げる涸沢さんと敬子さん

 

 1975年、大阪・北区で創業。関西では希少な文芸「専門」出版社として、関西に所縁ある著者の文芸作品を45年にわたり刊行。代表の涸沢純平さん独自の著者との繋がりで出版する作品は、幾多の文学賞を受賞するなど優れた関西文学を輩出してきた。涸沢さんは自身でも著者らとの出会いや本づくりを綴った『遅れ時計の詩人―編集工房ノア著者追悼記』(2017年刊)、『やちまたの人―編集工房ノア著者追悼記続』(18年)を執筆し、各紙誌の書評で紹介されるなど注目を集める。関西文学界にとって貴重な存在であり、「文芸」のみに特化した独創的な出版活動を続ける編集工房ノアを取材した。       

 【堀雅視】

 


詩人・港野喜代子氏との出会い

 

 無類の文学好き。涸沢さんは学校卒業後、幼稚園の保護者向け雑誌を発行する出版社で編集者として従事。雑誌で連載を持っていた詩人で児童文学作家・港野喜代子氏の担当となる。港野氏に小説、詩など文学創作を学ぶ「大阪文学学校」を勧められ、文学に興味を抱いていた涸沢さんは入学。同校の初代校長を務めた小野十三郎氏、小島輝正氏など、後にノアで作品を刊行する執筆陣らと出会った。

 

社名に込めた「編集」の精神

 

 その後、印刷機械関係の情報誌にも勤務したが、文学に魅了された涸沢さんは「このままでは自分の将来像が描けない」と独立を模索、一念発起し、文芸書専門の出版社、編集工房ノアを立ち上げた。「どうせやるなら自分が好きで得意なジャンルで挑戦したかった」と語っている。

 

 文芸系出版社は東京に集中するが、涸沢さんは「文芸は人間や社会をどう表現するか。人間の表現に東京も大阪もない。その地の文化があり、その地に作家がいる。大阪のことは大阪の人間が一番知っている。自分が生まれた関西で、住んでいる大阪で、関西の作家たちの本を出したかった」と話す。

 

 「編集工房」と名付けた理由について「出版はいろんな工程があるが、私は編集しか経験がなく、出版社と名乗るのは、はばかられた。しかし、本をつくる、編集するという工房的なことは自信があった」という。

 

 「人を雇わなければ、会社を設立したとは言えないと思っていた」と涸沢さん。「月刊誌を出していて人手が必要だった。複数人を雇用していたが、給料を払うのが大変。編集請負もしながら何とかやり繰りした。賑やかで楽しい面もあったが、経営的には大変だった」と、当時ともに奔走した妻の敬子さんと振り返る。

 

名作を続々輩出

『山田稔自選集』(Ⅰ~Ⅲ)

 

 文芸書は東京が主流と言われる中、同社は数々のヒット作を誕生させる。85年刊行、元旭屋書店勤務の海地信氏による『書店の店頭から―本屋はわたしの学校だった―』は、著者が出版界で名高いこともあり、業界関係者の多くが購入、初版日に重版が決まるほどの動きを見せたという。

 

 70年大阪万博テーマソングの作詞家・島田陽子著『金子みすゞへの旅』、『大阪ことばあそびうた』、川端利彦著『ひとりひとりの子ども―精神科医のみた子どもの世界』なども版を重ねた。

 

 天野忠詩集『私有地』では読売文学賞、『続天野忠詩集』は毎日出版文化賞を受賞。さらに元ハンセン病の詩人、塔和子氏の詩集刊行に際し、活動が評価され、第22回梓会出版文化賞特別賞に選ばれた。現在の推薦作品は『山田稔自選集』(Ⅰ~Ⅲ)。「山田作品(エッセイ)の中で選りすぐりのものを集めたので堅調に動くだろう」と手応えを語る。これらの功績もあって会社を軌道に乗せていくが、涸沢さんは「最近は、作品に込められた情緒を味わい、行間を読む人が少なくなってきた」と憂慮する。

 

文芸は普遍 丁寧な創作活動を

 

 しかし、次は50周年に向けて「流行を追いかけずに活動していきたい。文学、芸術は普遍。芭蕉が『奥の細道』で詠んだ『不易流行』のジャンルとして今後も丁寧な作品づくりに邁進していく」と前を見据えていた。