出版人は「非読社会」化を我が事にできているか 『本を読めなくなった人たち』稲田豊史氏インタビュー

2026年3月16日

 新書大賞2023第2位『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)から4年、ノンフィクションライターの稲田豊史氏による“続編”『本を読めなくなった人たち』(中公新書ラクレ)が2月9日の発売直後に即重版、業界内外から感想があふれている。「コスパ」「タイパ」があえて意識されるまでもなく日常化しているなかで『本を~』では、本を読むことが合理的ではなくなった「非読社会」におけるテキストメディアの現状と未来を提示した。しかし、稲田氏は「出版業界への提言本ではない」と断言する。その真意を聞いた。【聞き手=成相裕幸】

 

稲田氏

 

――2月9日の発売直後から業界内外問わず、読後の感想がネット上であふれました。

 

 真っ先に読んでくれたのは、いわゆる「読書垢」と呼ばれる「#読書好きとつながりたい」人たちでしたが、第4章「本屋に行かない人たち」では、彼らについて微妙な書きかたもしているので、お叱りを受けるのではという危惧もありました。でも蓋を開けてみると、怒っているというより、「本を読まない人たちからそんな風に思われていたなんて知らなかった……」と傷ついている人が思いのほか多かったです。

 

 また、読まない人には読む人とは別の種類の知性があることや、読めなくなったことには確固たる理由があることを、できるだけ公平に書きましたが、それにどれほどの衝撃を受けたかを、かなり正直に言語化してくれている方もいました。

 

――『映画を早送りで観る人たち』の刊行から4年が経ちました。『映画を~』からの問題意識で共通しているところ、異なっているところは。

 

 本書のサブタイトルは「コスパとテキストメディアをめぐる現在形」ですが、社会がコスパやタイパを求める志向は、同じ方向性のまま、より強まったと思います。一方、この4年間での大きな変化は生成AIの登場でしょう。本書の帯には、ある学生から出てきた「長い文章はChatGPTが要約を返してくれるので、本を読む必要はないです」という生の声を採用していますが、文章を丹念に全部読まなくてもいいという状況は、書物に限らず広く浸透したと思います。

 

 AIといえば、本の刊行直前、あるライターさんがXで書いた記事「28歳。限界フリーランス。 AI に仕事を奪われて月収が激減した話。」が大バズりしたんですが、本書にもAIにまつわる同じ論点の記述があったので、該当ページをスクショして記事を引用リポストしたら、すごく読まれたんです。世の中の人は本当に生成AIを気にしているんだなと実感しました。

 

言わねばならない「無料抜粋記事」と「独立系書店」

 

 4年前に文化通信さんの取材を受けたとき、「無料抜粋記事」について懐疑的なスタンスでお話ししましたよね。

 

 たしかにあのときは、無料抜粋記事を無遠慮に求めてくるWebメディアにいらっとしていました。ただ、よくよく考えてみると、テキストメディア全体がPVの地盤沈下を起こしている中、彼らは彼らでコスパよく記事の数を確保しないとやっていけない。そうせざるをえない状況が確固としてある。誰も悪くないと言えば、悪くない。

 

 確かに無料抜粋記事は、ある時期までは効果も意味合いもありました。ただ、自著で何度試しても、あまり販促効果を感じられなかったのは事実です。加えて、同業の方々から「あまり表立っては言いたくないが、タダで文章を提供するのは抵抗がある」という声も複数聞くようになりました。なんなら当のWebメディアの方ですら、販促効果が以前ほどではないと感じている。みんな、無料抜粋記事については、うっすら思うところがあったんですよね。それらを本に書くことで、問題を可視化したかったんです。

 

 もうひとつ、皆うっすら思っていたけど言わなかったのが、独立系書店です。この本では、ある種の独立系書店やシェア型書店を選民的空間扱いしているので、気分を害されている関係者の方もいらっしゃるかもしれません。

 

 ただ、まさにその点をしっかり議論しようを声をかけてくれた方もいました。東京・大塚で宇野書店をプロデュースする批評家の宇野常寛さんや、東京・三鷹のUNITÉ(ユニテ)の大森皓太さんです。2店とも独立系書店にカテゴリされるお店ですが、本の刊行前からトークイベントのオファーをしてくれました。念のため、お受けする前に「本の中では独立系書店を両手離しで褒めていないですが、構いませんか?」と確認したんですが、お二方とも「むしろ、その問題意識が非常に大事だと思う」とご返答いただいたんです。イベント自体も非常に有意義なものになりました。

 

 ただ、無料抜粋記事も独立系書店もそれほど一般性のある話題ではありません。そういう意味では、業界内だけで通じる話題ばかりを並べるのは避けました。なぜなら、この本は業界研究本でも業界提言本でもないからです。むしろ、どうやったらそういう本に「誤解」されないかを、構成や書名でかなり考え尽くしました。本書が志向したのは、孝現学であり文化論であり世代論です。その点は『映画を早送りで観る人たち』と共通している。だから“続編”を謳いました。

 

「能力的に読めない人が増えた」のではない

 

――冒頭で「非読社会」というキーワードを提示しています。

 

 「非読」は僕の造語です。不読ではなく非読。「不」は客観的でフラットな否定ですが、「非」には「非国民」「非効率」のように、そうあるべきではないといった価値判断が入ってくる。つまり「不読社会」は「皆が文章を読まない社会」ですが、「非読社会」は「文章を読まないほうが合理的とされる社会」くらいのニュアンスです。

 

 これは「能力的に読めない人が増えた」こととは微妙に違う話です。世の中には、情報を文章で受け取るより動画で受け取ったほうが効率がいい、合理的だと考える人もいますし、むしろそういう人のほうが数として優勢になりつつあります。となれば社会の側もそういう人たちに合わせ、さまざまなことを文章ではなく動画で発信するようになる。そしてますます非読社会化が進む。ビジネス書を読む代わりにビジネス系動画チャンネルを見る若手ビジネスパーソンが増えているのは、その一端でしょう。

 

――この業界の中にいる人ほど、本を読むことは善、読まないのは悪であると考えがちではないでしょうか。

 

 本というプロダクトが好きでこの業界に入っているので、それは仕方がありません。僕自身も、本でしか提供されないものの価値はもちろん信じていますが、本を読む人と読まない人の分断がここまで進んでいる現実をしっかり見つめている出版業界人はそれほど多くない。一度、自分たちの「本が好き」という自意識が一般人の中央値とどれくらい乖離しているか考えてみてもいいと思います。

 

業界の「内向き志向」の現実

 

 本書では、幻冬舎の編集者である箕輪厚介氏の以下のポストを引用しました。「編集者や書店員が本の良さやベストセラーの裏側を、出版業界や本好きに語って、みんなで感心し合うというムーブがあるが、矢印が内側にしか向いておらず、そのコミュニティ自体が小さくなり世間とドンドン離れていることに気づいていない。本のベストセラーが世間の関心事になる時代は終わった。」

 

 

 箕輪氏の言動をあまりよく思っていない同業者がいるのはもちろん知っていますが、このポストに関しては公平に言って現実でしょう。その現実を認めたうえで、ではどうするのか話を本当はしなきゃいけないのに、そこを突き詰めないまま、読まれないことを大衆の知性の問題にしてしまうのは、ちょっと違う。

 

――終章では「長く複雑な文章を自力で読み通す能力は―ラテン語の読み書き能力と同様に―レガシー(遺産)化の道を辿るかもしれない。」と予想されています。

 

 古くは暗算能力、今でいうところの語学能力やプログラミング能力は、自力で習得してなくても、テクノロジーのアシストによってあるレベルまでは全然いけてしまうようになりました。長文読解もそれと同じで、生成AIの要約機能を使うなりすれば、自力で読む必要はなくなる。そうなれば、自力で長文を読む能力は、珍しがられるし尊敬もされるかもしれないけど、日々の生活には必要のないものとして真っ先に切り捨てられるでしょう。ラテン語化です。

 

 文章が好きでこの道にやってきて、現にいま文章で飯を食っている人間としては、悲しいですよ。生成AIを前に、それでも自分で書いた文章に経済的な価値があるかどうかを考えた瞬間、あるいはコスパ・タイパの物差しを持ち込んだ瞬間、文章は劇的な劣勢を強いられる。ただ、職業ライターの生き残り方の話をするなら、生身の人間が生身の人間から話を聞き出す際に駆使される「べしゃり」の技術は、当分の間は生成AIに置き換わらないでしょう。

 

書店の「圧」にネガティブになる人

 

 ――それに関連して、ファンは「コンテンツ」ではなく「キャラ」につくと書かれていました。

 

 昨年12月にさらば青春の光の「さらばのこの本ダレが書いとんねん!」という番組に出演したとき、昔は本を書く人は「陰キャ」だったけど、今は「陽キャ」しか本を書けないし売れない、という話をしたら、ふたりともすごく納得していました。書き手のキャラを前面に出さないと、もう文章なんて売れないですよね。

 

 昨年11月には、有隣堂のユーチューブチャンネル「有隣堂しか知らない世界」で『学研の図鑑 LIVEエクストリームティラノサウルス』が配信開始から10分あまりで4000冊が完売しました。あれはいわゆるライブコマースですが、ライブコマースこそ陽キャの独壇場です。キャラの立っている人が熱意たっぷりにしゃべることで、ものが売れる。そうでなければ売れない。もはや本もそういうアイテムになってきたということです。

 

 これはトークイベントで本が売れることに似ています。トークイベントに来る方は入場料と飲食代を払っていて、そのうえ本も買うので、トータルで本の価格の倍以上は出費していることになる。でも誰も無駄な出費だとは思わない。1時間なり2時間なり著者の話をキャラ込みで堪能するという体験に、ちゃんと価値を認めているからです。本は、買うまでの体験も込みで提供してあげないと売れない。

 

 従来、そういった体験を演出するのは、面白そうな本を並べている書店の役割でした。でも書店が減った今、その体験を誰もが味わうことはできません。これは若者のグループインタビューでも判明したことですが、そういったこだわりの陳列を「圧」とか「知的なマウンティング」とネガティブに捉える人すらもいます。

 

結論を提示するのではなく議論のゴングを鳴らしたい

 

 本を売る側や作る側は、どうしたって読める側の立場で考えるじゃないですか。神保町に行けば本売りと本読みのプロが集まっている。間違いない本が陳列されている。その知の圧こそが、本を読む人は嬉しい。その喜び自体は否定しません。ただ、出版人が今後もその人たちだけを相手に商売をするつもりなら、本の市場は―本書の言葉を引くなら―「縮絨(しゅくじゅう)」していきます。「ウールのセーターを洗ってぎゅっと縮む」イメージですね。

 

 書物は時代によって受け止められ方が変わってきたので、今後、予想もしない形で今とは違うポジションを獲得する可能性も、ゼロではありません。このまま市場が小さくなる以外の未来があるかもしれない。どうなるかは、僕も含めた出版業界従事者の動き次第だと思います。

 

 この本は何かの結論を出そうとしたのではなく、議論のゴングを鳴らしたいと思って書きました。稲田というライターが現時点で収集しうる、この界隈の諸問題や論点、考えなければならないことを可能な限り詰め込んだので、本書を肴に活発な議論が広がっていくことを願っています。

 

中央公論新社/新書判/296㌻/定価1210円

 

出版業界は「コスパ消費者」にいかに向き合うか 『映画を早送りで観る人たち』稲田豊史氏に聞く