「ひとり出版社」奮闘記 萌書房(奈良)白石徳浩さん、理想の「編集」追求し独立

2020年8月11日

20周年記念企画は壮大なスケールに

『ブレグジット×トランプの時代―金融危機と民主 主義の溶解』を手にする白石徳浩さん

 2001年1月に設立した萌(きざす)書房は、浮き沈みが激しい出版界で「ひとり出版社」として年間8~10点の新刊を刊行し、来年の20周年に向けて大型企画の準備を進めている。代表の白石徳浩さんは「今世紀中に終わらないかも知れない壮大な企画」と冗談っぽく語るが、長男の慧(けい)さん(24)が後継者としての道を歩み始めるなど将来の期待も膨らむ。古都奈良で良書の刊行を続ける同社を取材した。

【堀雅視】

 


 

経理、営業経験も独立時の武器

 

 福岡出身の白石さんは、関西の名門、同志社大学(京都市)文学部を卒業し、専門書系の出版社に編集者として入社する。白石さんは「編集」という仕事に対し、著者と念入りな打ち合わせを重ね、原稿を何度も読み返し、校正には何時間も費やして「良質な著作物に仕上げる」というイメージを描いていた。しかし、現実は人員も限られ、会社からは効率を求められ、時間を要する細かい作業に否定的な風潮も見られた。15年間で出版社2社に勤務したが、自身が納得する編集はできなかった。

 

 そんなとき、美術雑誌の創刊を目指していた著者の一人を代表とし、さらに白石さんの元同僚も加わり、1999年、3人で美術系の出版社、醍醐書房を設立する。同社は設立後すぐに大手販売会社に取引口座を設け、経営を軌道に乗せた。白石さんは「それまで勤務した出版社が小人数だったので、編集、営業、さらに経理まで携わった。その経験とネットワークが会社の経営、マネジメントに生かされた」と話す。

 

母校の仕事で著者の人脈広がる

 

 しかし、美術系分野に限定したい代表の方針と、経営基盤安定のためにジャンル拡大を訴える白石さんの考えが合わず、円満な協議の末、退社し、萌書房を自宅の一室で立ち上げた。「ひとりで出版社を始めるには金銭的な不安もあったが、醍醐書房から物心両面でサポートしていただき、心強かった」と感謝を示す。

 

 また、「『一国一城の主になりたい』とか『自分の関心ある分野だけを出版したい』などと思っていたわけではなく、『編集』という仕事にしっかり丁寧に取り組みたかっただけ」と当時を振り返る。

 

 しかし、設立当初は、学習塾講師や新聞配達などのアルバイトもしながら出版活動を行うなど苦難の連続。新刊が年間2点という年もあり壁に直面した。夫人は設計関係の仕事にフルタイムで従事しているため、幼い二人の子供を自転車の前後に乗せて保育園に送り迎えするなど、家事・育児との両立にも苦労が絶えなかった。転機となったのは、母校に03年設立された「同志社大学ヒューマン・セキュリティ研究センター」の活動に関わったことだという。

 

 白石さんは「同センターの活動内容や研究成果などをまとめた年報や書籍の編集、刊行を通じて同志社大の教員のみならず、様々な書き手との繋がりが広がった。現在、年間8~10点を刊行できているのは、この時に培ったネットワークがあってこそ」と語る。

 

関西は学術系著者が充実

 

 奈良で営む理由について「妻の実家が奈良にあっただけで、場所にこだわる気持ちはない」というが、「文学系の著者は東京に集中しているが、専門書の著者は、関西も少なくない。出版社の数を考えれば書き手は非常に豊富」と述べる。

 

『ブレグジット×トランプの時代―金融危機と民主主義の溶解』=四六判並製/302㌻/本体2400円

 

 直近の売れ筋は今春刊行の『ブレグジット×トランプの時代―金融危機と民主主義の溶解』(小野塚佳光)。ネット書店を中心に好調で、初刷り2千部でスタートし、重版も見えてきているという。また、13年刊行の『芸術の中動態』(森田亜紀)は、後に「中動態」という言語学分野の概念が哲学の分野でも注目を集め、現在も動きを見せるロングセラーとなっている。

 

後継者の存在 心強い

 

 来年の20周年に向けて哲学や社会学、英文学関係で大型企画が進行中だという。白石さんは「うちにとっては身の丈以上、分不相応の仕事。私の代で完結しないかも知れない」と話す。しかし、長男の慧さんが現在、専門書系の出版社で編集、営業などを修行中。将来は萌書房2代目社長に就任予定で長期にわたる企画にも安心して取り組むことができる。

 

 「厳しい出版状況の中、私の代で会社を畳もうかと考えた時期もあったが、こんな小さな会社でも応援してくださる著者の貴重な論考を、個人の都合で流通できない状況にするわけにはいかない。そういった意味でも後継者がいることは心強い」と目を細める。

 

 出版社勤務時代も含め、35年以上、業界を見てきた白石さんは「編集者の質の低下が気になる」と憂い、慧さんに向けても「会社を大きくしてほしいなどとは望まない。しっかり編集力を磨いて、質の高い本づくりをしてほしい」と語る。

 

 「今は独立して良かったと思うが、仲間と一緒に喜んだり、時に悔んだりできないことが寂しいときもある」というが、近い将来、慧さんとの共同作業で、共鳴・共感できる日が訪れるだろう。

 

萌書房=奈良市大柳生町3619―1