【寄稿】専修大学ジャーナリズム学科・山田健太教授「マスメディア ポスト・コロナをどう見据えるか」

2020年4月24日

新型コロナウイルス感染拡大の中で

 

山田健太氏

 直近の英米研究所の予測だと、2022年まで自粛は続くとされる。日本国内の感染状況については、秋までには収束との楽観的な見通しがまだ多いのが実情だが、現実的には少なくとも東京オリンピック・パラリンピックの開催はない、くらいまでは見通しをもって臨むことが必要だろう。

 

 そうしたなかで、メディア企業とりわけ伝統的メディアと呼ばれてきた、出版・新聞・放送は壊滅的な営業収入減に直面しているとされる。さらにStay Homeのなかでの社会貢献として、書籍電子版の無料配信、新聞デジタル版の無料開放、番組の無料放送と、「無料」コンテンツがインターネット上に溢れる状況だ。

 

 いうまでもなくこれらは、媒体にとって収入を失いはするが、著作権者の我慢の上に成立するものだ。となると、すでにいわれている通り、自粛の長期化の中で芸術家・表現者の収入は激減し、生活に大きな影響が及んでいるうえに、この間のデジタル印税(わずかなものかもしれないが)をも献上するという状況を生んでいることになる。

 

マスメディアも重要な局面

 

 さらにいえば、とりわけ新聞・出版にとっては、紙からデジタルへと情報接触行動が大きく変容する中で、さらに自らデジタル媒体に誘導する方策をとったことで、将来の読者を手放している可能性すらあるのが実態だ。もちろん放送も同じ状況で、新しい番組制作が一部ストップし再放送等で凌ぐ事態が続いているが、その間に一層、オンライン上のオンデマンド配信に視聴者の興味は移っていくだろう。

 

 今回のコロナ禍は、潜在的な問題を炙り出しているとよく言われ、まさに日本社会の欠陥が露呈しつつある。同様にマスメディアにおいても、かろうじて維持していた慣行や事業モデルが一気に転換する局面を迎える、あるいは否応なしに新たな世界に踏み出すことを決断せざるをえない可能性があるということになる。

 

 と、いま改めて書いたが、そんなことは各メディア企業の経営者は十分に認識もし、すでに手を打っていることだろう。状況が流動的で現在進行中のなかで、しかも部外者がプラスαをいう隙間はないと思うものの、だからこそあえていくつか気になることを指摘しておきたい。

 

日本の文化行政を見直す必要も

 

 第1に、日本社会のとりわけ政府の、文化や芸術へのリスペクトが全くないことがこの間、明らかになったことから再出発をする必要があるということだ。首相ツイッター投稿に、音楽活動への敬意が微塵も感じられないことを、ここで再考する必要はなかろう。が、例えばフリーランスとフリーターを同一視し、フリーランスに対し職安に行くよう指示をしたり、当初予定していた事業保障に芸術活動関係がほぼ入らない仕組みであったりしたことは、改めてテイクノートしておく必要がある。

 

 こうした状況はすでに、19年の「あいちトリエンナーレ」をめぐる補助金カットや、そのあとでも明らかになった不交付基準の変更などをもってしてもみえてくる。芸術が、人としての生活にとって必要不可欠な維持装置であるという認識はなく、政府のお情けで助成している程度にしか考えていないことが明らかになったということだ。しかも、こうした施策を進めているのが、文化を守ることが仕事の文化庁であるところに日本の不幸がある。

 

 それは中央政府だけではなく、コロナ禍を理由に、あっさりと中止を決めた広島県の国際芸術祭「ひろしまトリエンナーレ」も同じだし、先に挙げた愛知県の場合も、事件の総括の意味合いを含む「あいち宣言」をいまだに出すことなく、今日に至っている。ということは、これを機に、根本から日本全体の文化行政を見直すことが必要ということだ。

 

 そしていうまでもなく、こうした文化活動を担ってきたのは、明治以来、出版社であり新聞社であった。いまでも著作権関係では一定の地位を占めてはいるものの、昨今の消費税軽減税率の問題でも、政府意向に押されっぱなしで、むしろ政治家に振り回される状況が続いていて歯がゆい。これを機に、崩壊しかかっているこの国の文化・芸術再興のコアになるべく発信力を増していただきたい。

 

「表現の自由」を守る担い手に

 

 そして第2は、表現の自由を守る担い手としてとの自覚と覚悟である。いくつかの出版社はこの1~2年の間に差別問題で大きな社会的批判を浴び、当該雑誌を休刊したり謝罪したりした。新聞社も同様な状況だ。その教訓を生かすならば、言論の自由とは「何を言ってもよい」自由ではないし、ましてや儲かるなら何を売ってもいいはずはない。

 

 まさに、出版事業(新聞を含む)は、憲法で保障されている表現の自由を体現するメディアであって、その自由の行使には当然責任が伴う。同時に、社会の表現の自由の可動域を維持・発展させるための社会的責任がある。だからこそ、幾多のメディア特恵的待遇を有するのである。否、特権があるからではなく、そもそもの存在理由として表現の自由の守り手であり、市民の知る権利の代行者であることが求められている。

 

 たとえばいま、社会全体が政府のグタグタぶりを批判し、より強いリーダーシップを求めている。もっと強制力のある政策を打ち出すことを願っているということだ。最新の世論調査では7割近くが、緊急事態法制の制定を望むとされる。それはいうまでもなく、より厳しい私権制限ということであって、表現の自由も集会の自由も、国難という言葉のもとに国家のコントロール下におくということだ。

 

 有名人の発言にも最近、「こんな時に政府を批判していないで一致団結して頑張ろう」とか「戦争状態にあるんだからごちゃごちゃ言うな」といった乱暴な言い方が目立ってきた。私たちがここ75年大事に育んできた、自由や権利を一瞬にして壊してしまう雰囲気の醸成だ。そして残念なことに、新聞にも雑誌にも(そしてテレビでも)こうした威勢も歯切れもよい声が、より大きく扱われる傾向にある。

 

 そして読者や視聴者は、こうした大きな声に押されて、ますます「異論封じ」の方向に収斂していく状況だ。長期化すれば、新規立法で緊急事態法制を作るという話が始まりかねないし、少し先の話で言えば、憲法改正も俎上に上がってきそうな勢いだ。そうした時に、社会には歯止めが必要で、その役割が出版事業にはあるはずだ。第2次大戦中の、先を争うように軍部に協力をし、経営的にも儲けた過去を繰り返してはならないはずだ。

 

新聞・出版業界の取り組み加速を

 

 第3に、業界としての取り組みを加速させてほしい。直近の問題としては、図書館も閉鎖、書店も営業自粛する中で、出版物に触れる機会は一般市民にとって激減している。そうしたなかで、たとえば軽症者・無症状者宿泊施設に雑誌を無償配布するとか、医療従事者に書籍を届けるなどの活動はできないものか。

 

 すでにトライされた結果、様々な障壁(手間や廃棄物が増えるなど)があるのではあろうが、こうした取り組みをナショナルあるいはローカルで行う意思表示が求められている。同じことは新聞にも当てはまるだろう。災害時に避難所に無償配布するのと同じだ。横浜港沖のクルーズ船には一時地元紙が配布されたが、場合によっては発行日より遅れた新聞・雑誌であってもよいのではなかろうか。

 

 そしてこうした取り組みは、社会全体に媒体の存在を印象付けるきっかけになる。この間、紙媒体は中高年向きの遺物として扱われてきた感があるが、新聞や雑誌の購読経験を取り戻すためには、時間をかけた運動が必要だ。もはや小学生レベルだと、雑誌や新聞を触ったことがないどころか、存在を知らない層が生まれている。あるいは、定期刊行物離れは若者層だけにとどまらない全体傾向でもある。

 

 そうしたなかで、今回の無償配布を奇貨として、一部研究者間で始まっているMIE(教育に雑誌を)や、少し停滞感があるNIE(教育に新聞を)の活動をより拡大して実行する、あるいはより新しい発想での小中のみならず高校や大学教育を包含した、教育界や図書館界との連携事業を実行してほしい。

 

伝統的メディアの力の見せ所

 

 最後に3つ目と関わるが、異論があることを承知で「紙の再興」をお願いしたい。その意味は、ずばりデジタルも大事だが、紙媒体の価値を再確認しようということだ。世はオンライン授業、オンライン会議がデファクトになりつつある。このベースになるデジタル技術は需要が拡大する中で、さらに進歩していくだろう。

 

 そのなかで、いかにオンラインを乗り越えるかを期待したい。いま多くのメディア企業は、ジャーナリズムを捨て、いわゆるデータ企業への脱皮を図っている。とりわけ在京の新聞社にその傾向が強い。また、放送局も同じである。出版社も大手をはじめ、オンラインビジネスという名のもとにデータ企業化が進行している。

 

 もちろん、ビジネス上の選択肢として否定はしないし、新しい市場を開拓してほしい。それもまたデジタル時代のメディア企業の役割ではある。しかし、こうしたなかで「ジャーナリズム」活動を担う社会的使命や役割を放棄して、社会的存在価値はあるのか、という青臭い議論をあえてしておきたい。

 

 社会における自由な言論空間を維持するには、表現の自由を保障する法をはじめとする社会制度だけでは事足りない。必ず、その自由を守るべく監視役が必要だし、その自由を使って市民に情報や知識を伝えるジャーナリズムの存在が欠かせないということだ。しかもその活動は、AIに委ねるのではなく、まさに人間臭い所作の上に成り立っているものだ。

 

 取材も執筆も編集も、みなそうしたジャーナリズム活動そのものである。こうした活動を維持・発展させていくうえで、これ以上、紙媒体を弱体化させることに、強い危機感が筆者にはある。情報や知識を紙という媒体の上に固定化させること、その重い責任と自覚・覚悟がなく、どんどん知識も情報も軽くなることでよいのだろうか。

 

 歴史に耐える記録物として残していくことが軽視されてよいのだろうか。いまの公文書クライシスも政権に起因する問題ももちろんあるが、時代や社会の「文書」に対する軽さが原因ではないのか。そしてこの軽さは、必ずブーメランのように、自らの活動に対する信頼度の低下や、社会的地位の低減という形で返ってくるだろう。すでにその兆候が表れてはいないか。

 

 いまこそ、伝統的メディアの力の見せ所だ。

 


 

山田健太(やまだ・けんた)氏

 専修大学ジャーナリズム学科教授。専門は言論法、ジャーナリズム研究。日本ペンクラブ専務理事など。主著に『沖縄報道』『法とジャーナリズム 第三版』『ジャーナリズムの行方』『見張塔からずっと』『現代ジャーナリズム事典』(監修)