【東日本大震災】大震災当日、新潟日報が河北、山形との援助協定を実行

2013年1月2日
(2011年3月21日付掲載)
 3月11日、14時46分に発生した東日本大震災。東北の太平洋沖で起こった国内観測史上最大となるマグニチュード9・0の地震は、宮城県をはじめ、東北・関東地方など広い範囲に甚大な被害をもたらしている。今回の巨大地震、その直後には東北地方一帯、茨城県などで大規模停電に見舞われ、同地域にある地方紙などにも大きな影響を及ぼした。一部では翌12日付朝刊の新聞制作が困難な状況となり、「災害時援助協定」を結んでいる近隣県などの新聞社に組版や印刷を委託した。新潟県紙である新潟日報社も地震発生の直後、河北新報社(宮城県)と山形新聞社(山形県)から協力要請を受けた。突如起こった「協定実行」という初めての事態。編集局や販売局など全社を挙げて迅速に、そして冷静に対応した。

「震度7」協力即決

 「宮城県で震度7を観測したようだ」??。地震発生の15時前、新潟日報本社でも大きな横揺れが1分以上続いた。しかし、停電もなく、新聞発行に影響を及ぼすほどではない様子。ただ、東北地方を中心に甚大な被害が出ていることが、すぐに判明してきた。
 そのような中、河北から「災害時援助協定」による紙面制作の協力要請があったのは発生からすぐのこと。続いて、山形からも要請を受けた。新潟本社にはすぐに、星野悟常務を本部長とした対策本部が設けられ、両社との協定に基づき、12日付朝刊の新聞印刷、制作、発行に協力することを即決した。
 新潟と河北の災害時援助協定が結ばれたのは、2010年3月17日付。災害時でも新聞発行が継続できるように、物心両面で全面的に援助することになっているが、両社の場合には印刷代行までは含まれていない。それもあり、河北の記事データを新潟に電送、それを新潟の整理記者が組んで、河北の印刷センターに送ることになった。
 この両社、実は今年の2月にデータの相互送信、紙面作成の試験をしたばかりだった。2月16日付の朝刊の記事データを送りあい、それぞれで紙面を制作、それを両社で刷り出して確認していた。もちろん、このような協定が実行されるような事態にならないことが望ましいが、直前に実施した試験のおかげもあって、連絡などもスムーズに機能していたようだ。
 協定には、こういった事態での紙面制作は8?の発行を基本に協議すると書かれている。それを受け、河北から12日付朝刊8?の出稿予定が届いたのが19時すぎ。1面用の「東北被害本記」やコラム「河北春秋」のほか、被災地記者ルポなどを出稿するとの連絡だった。
 河北は新潟に記事データを電送、あわせて整理記者2人も新潟本社に派遣。その後、12日付朝刊8?を新潟の整理が組み上げ、到着した河北の記者がそれを確認。そのうえで、紙面データが河北の印刷センターに送られた。

協定、2社同時進行

 その一方で、山形新聞社との協議も同時に進行していた。新潟と山形の災害時援助協定が締結されたのは95年12月14日付。こちらは印刷代行までが協定内に含まれている。
 地震発生当初、山形からは制作センターが停電でダウンしたため、朝刊5万部を新潟で刷ってほしいとの要請があった。しかし、電気の復旧が遅れたことなどから、その後に印刷部数は増加。最終的には新潟が20万部を刷ることになった。
 山形から8?の紙面データをもらい、刷り上がった紙面を新潟がトラックを出し、山形の制作センターまで輸送するというのが今回の内容。このような状況のため、19時すぎ、山形朝刊は「20時降版、21時の刷り出し」となったことが新潟編集局内に、大きな声で伝えられた。
 結局、山形の朝刊は20時過ぎには刷り上がり、編集局内で高橋道映社長らが、刷ったばかりの紙面をチェック。通常よりも相当早い降版で、新鮮な多くのニュースを盛り込むのは難しかったが、編集局内では「このような非常事態、内容はともかく、紙齢を守るのが先決ということだろう」とつぶやく声も聞こえた。

「助けるためなら…」

 当日の15時前、突然起こった巨大地震。その時間、記者は別の取材のため、ちょうど新潟日報本社を訪れていた。誰もが全く予期せぬ事態で、新潟日報としても他社の新聞制作を受けるのは初めての経験。その状況を偶然にも取材させてもらうことができた。
 当日は夕方から夜にかけて、新潟の編集局もこのように慌ただしい状況が続いた。しかし、さまざまな対応は早く、地震発生から1時間後には、新潟駅前などで配布するための号外も制作。それと同時に、河北の題字を使った号外も作られ、16時30分には新潟本社から号外などを載せたトラックが仙台市に向け出発した。
 今回の河北の題字を使った号外発行。それに関する事項は、新潟と河北の援助協定の中には盛り込まれていない。しかし、高橋社長は非常事態であることなどを考慮し、「協定とは関係なく、すぐに(河北の)号外も制作し、仙台へ持っていく」ことを指示したという。
 新潟では中越地震の際に、多くの新聞社からさまざまな援助をしてもらった経緯もある。高橋社長は今回の協定実行も含め、「私たちは(他社を)助けるためならどこにでも行く」と語っていたのが、強く印象に残った。